詰まらないのも嫌だけれど詰まってるのも嫌なので酒で流し込む

また本をたくさん買ってしまった。5冊。読まないのに、読めないのに。まぁ思想系、変わらない。ある意味変わらなさすぎな自分にうんざりする。職場の頼りにしている同い年にして先輩が退職をマジな意味で仄めかし、いなくなったらと思うと闇、カービーSwitchをやる妻を横目に転職の二文字がよぎる。とはいえ、転ずる先なし、転がる私を受け止めてくれる場所なぞあるわけもなし、緩慢な絶望に喉が詰まる。酒で流し込む。

積読は積徳なのだろうか

アクセス数は自分がタップした回数という実に貧しい自分語りのブログを再開して一応続けているけど、それにしても自分がアクセスしたことまでアクセス数にカウントするのは設計的にどうなんだろうかと首を傾げてしまう。とはいえ誰にも読まれないけれど読まれうるという可能性があるだけで書く動機になりうるというのは考えさせられる。読まれないと思っているからこそこんな文章を吐き連ねられるのだし、しかし読まれるかもしれないからこそアップし続けるという、本当にうんざりする自分の承認欲求とその浅はかさでもある。

妻とはセックスレスで最後にいつしたのかも覚えていないくらいご無沙汰で、かといってそのことで深刻に悩んでいるわけでもないのだけれど、悩んでいないのは私の方だけかもしれず、それこそ先日妻が悪夢を見たといって語った内容は下世話な夢解釈をすれば、そろそろあなた子どもを作るなら作る覚悟を決めて作らないと、とでもいうような内容で、私は聞いた途端に自分のこの解釈を言いそうになってぐっと飲み込み静かに静かに出勤の自転車こぎで吐き出した、そんな記憶を一二週間ぶりの今夜酒を飲みつつ反芻している。

新刊その他書籍を5冊購入。読めないのに買ってしまう。読めないのだからもう買わないと何度言い聞かせても、ふと頭をもたげて欲望がナッジして気づけば買っている。普通におかしい、ヤバいという意味で。いつ読むんだ、いや、読む時間はあるのに、ゲームしたり自慰したり走ったりボーッとしたりして、湯水の如く流し去ってしまっているだけなのだ、と気づいている。けどそれまでだということは、やはり私は本を読み書くという、研究者の資質を持ち合わせていないし持ち得る可能性もないのだなと再確認した夜だった。

 

走ってるときしか自分じゃない

土曜出勤。朝10キロやって流し2本。全然スピードにのれていないのがわかりすぎる流しだった。伸び代だと前向きに。ジョグのほうは、昨日朝20分だけに留めて疲れが抜けていたのか(とはいえ日中チャリで外回り20キロやったりしたからどうなんだろう)、それとも朝いつもより早く起きて走る前に45分くらい目覚ましタイムを確保したからか、朝にしてはだいぶ身体が動いてくれた。

そもそも朝ランを定着させるべくここ最近頑張っているのは、練習量を増やしたい時期に夜も走れば二部練にできると思ったから。朝走ることへの抵抗をなくして、余力があれば夜も、無理なら朝のみでOKという精神的なゆとりがほしいから。その朝はだいぶ慣れてきていて、思ったより「頑張って」続けている印象はない。ここからゆくゆくは「ついでに」やってる感を得られれば、もう継続に心配はないはず。

オートファジーは最近サボりがち。このままだともう続かないだろうな。まあ仕方ない。体力使ったあとに水分とナッツ以外は無補給で6時間以上耐久というのはツライ。なにより寒い、冷える、それが一番堪える。そこまでしてやるべきなのかわからなくなってしまった。食事で痩せるは私には無理だと何度目かの再確認。というわけで洋定食でランチ。

土曜出勤してまでやる仕事量ではないのに社員一律出勤というの、人件費無駄だと思うけど、ある意味このご時世ぼーっとしてても給料もらえるのは貴重。そのせいで走りもできてるわけだし辞めずにズルズル続けているけど、スキルアップするわけでもないし、この先は真っ暗。

興味あることしか本気でできないうえに移り気な性格、そしてそもそも興味あることでずば抜けもしない。実に「キャリア」的なものと相性が悪い。諦めと耐え忍びしか待っていない残りの人生、定職に就いているのに何を言ってるんだと罵られるのも承知、中途半端は幸せにはなれないのだな。

読みはじめ:古谷利裕『虚構世界はなぜ必要か?』

『虚構世界はなぜ必要か』という本を買って読みはじめている。いまでもWebでも読めるけれど、紙で読みたいので購入。読むスピードは遅いのではじめのほうだけ。

どうしようもないもの、しょうがないもの、変えられないもの。「この現実」はそういうものだ、という「考え方や空気」を著者は「現実主義」と言っている。こうした現実主義においては、人々の思考は、「この現実」ないし「この世界(社会)」をどのようによりよいものに変えていくかを考えるよりも、

今ある現実(刻々と変化する状況・あるいは変わらない構造)のなかで、どのように振る舞えばより多くの利得が自分にもたらされるのか、今ある条件のなかでどのようにサバイブしていくのか、と考えるようになる(はしがき、p. i.)

このようにしか考えることができなくなってしまうと、今ある現実にいかに適応するかだけがもっぱらの関心事となる。

同感、ホントそうだよなと思う。フォーディズムの時代、チャップリンがモダンタイムズで戯画化した工場的な生産形態と人間関係が基本線の世界では前景化しなかった、不特定多数の人とのコミュニケーション、様々な利害、様々な特性をもつ人との、即興的・柔軟な応接力、要するに「コミュ力」が求められるが故に際立つ「適応障害」、あるいはその芽をなるべく早めに発見し「まともに・普通に」するべく動員される人々、その権力を保証する各制度・資格の繁茂。先行きの不透明な目まぐるしい社会、VUCAの時代、学び続けなければいけません、非認知能力の涵養も大事です、云々と巷では喧しい。そうした言説自体が「現実主義」を再生産してもいるし、そこで言われる「学び」の理想形は「AI」的な学びであり、学びの理想速度は資本の速度であって、結局そこでは一種類の時間しかない。変化の目まぐるしさは変化速度=資本の速度(でたらめな商品の差異化の速度)であって、多様なものが一気にやってきて流れ去りまたやってきての繰り返しのなかで、多様性という意味での豊かさ(≒開放性)とは反対に、逆説的にも閉塞感が覆っていく。

そんな「現実主義」が蔓延しているなかで、フィクションは、虚構世界はそれに抗いうるのか。この問題を主にアニメを題材に考察していく本書。半分くらい観たことがない作品だけれど大丈夫だろうか、と思いつつ読み進める。

時すでに遅し①

前の土日、2/11-12は天候に恵まれたおかげで、 ジョグスタートからすごくいい練習ができた。 快適なキツさでほぼほぼ走りきることができて( ラスト1キロの上り坂で垂れてしまったけれど) 充実した時間になった。 キロ5から最初の下りでリズムにのってキロ4半で前半を折り返し 、緩い下り基調の後半はキロ4一桁台で推移、 ラスト2キロがキロ415、ラスト1キロがキロ440。 トータルで14キロを1時間余りで終えた。 こんなペースで走れたのは5年ぶり。 とはいえ当時はこれがジョグで快適余裕で終わっていたのだから、 まだまだ戻ってはいないのだけれど、 当時の速度帯をキツさは違えどまた体感できたのは大きな収穫だった。脚を上げて脚の返しを早くする意識はいったんやめて、 股関節の動きだけで走ることに集中した。腿は大して上がってないので傍目にはトボトボ走ってるように見えると思う。この感触を覚えてから、より大きな動きにつなげていきたい。

なぜか韻踏

今朝は早起きしただけ、雨が降ってチャリもお預け。久々に走らない日、妻が帰省で夜は一人。伸ばす羽根なく直帰だ、休む間もなくダビスタ。一人で育てる架空の馬、虚空に漏らすため息深々。溜まるばかりの洗濯物、掃き溜められる夢の残存物。残り人生あと何キロ?もう戻れない過ぎ去りし岐路。

腕時計がよく寝れたねと褒めてくれたから今日はシヴュラ記念日

いつもより30分、日によっては1時間近い早起きをして、 リビングで白湯を飲みのみ、妻と会話しつつ、 ゆっくりと眠気を覚ます。 昨日より5分ばかり早いスタートで朝ラン。 ガーミンは昨日より睡眠スコアが高く良質な眠りができていました と褒めてくれた。そのせいか、昨日の朝ランより体が動く。 6キロをビルドアップ、ラスト1キロはキロ4まであがり29分、 余った1分で流しを1本。こういうコンディションでできるなら、 朝ランは全然ありだし、 もう少し質量において負荷をあげることもできそう。寝るのは不得意な方。とくに寝つきの悪さは極めつきで、 この点だけは妻と好対照、3分で寝れる妻が羨ましい。 そんな寝つき下手な私がよく寝れてましたとガーミン先生に褒めら れたのは、ひとえにアモバンという睡眠導入剤を飲んで寝たから。 だったら毎日飲めばいい話、とも思う一方で、 薬に頼りたくないとも思う。 病院で処方し続けてもらえるのかわからないし、 当初の目的とはちがった意味で継続処方をお願いしてみるか、 それともそこは黙っておくべきなのか。もやもやする。
朝ランで深部体温があがっているのか、 昨日に引き続きまたもや通勤自転車で汗ばむ。 この汗が逆にオフィスで冷えるのが嫌なんだけれど、 どうしたらいいのかわからない。
午後は外回り5件。市内なので自転車で行ってしまう。 明日は雨で走れなさそうだし、その分今日動いておく。天気がいい。明日雨なのが嘘みたいだ。

行く先々で担当者不在という奇跡。なんか悪いことしたかしら。心当たりがなくもないけど。三時過ぎにモールでまたパスタランチ。客に注文させるシステムな店に入ってしまい激しく後悔。ホントこういうの嫌いだ。スシロー的な何かだと認識している。

一山越えて会社というところでコンビニコーヒーブレイク。このまま家に帰ってしまいたい、と今日何度目になるのかわからない内言をして夕陽に目を細める。