読みはじめ:古谷利裕『虚構世界はなぜ必要か?』

『虚構世界はなぜ必要か』という本を買って読みはじめている。いまでもWebでも読めるけれど、紙で読みたいので購入。読むスピードは遅いのではじめのほうだけ。

どうしようもないもの、しょうがないもの、変えられないもの。「この現実」はそういうものだ、という「考え方や空気」を著者は「現実主義」と言っている。こうした現実主義においては、人々の思考は、「この現実」ないし「この世界(社会)」をどのようによりよいものに変えていくかを考えるよりも、

今ある現実(刻々と変化する状況・あるいは変わらない構造)のなかで、どのように振る舞えばより多くの利得が自分にもたらされるのか、今ある条件のなかでどのようにサバイブしていくのか、と考えるようになる(はしがき、p. i.)

このようにしか考えることができなくなってしまうと、今ある現実にいかに適応するかだけがもっぱらの関心事となる。

同感、ホントそうだよなと思う。フォーディズムの時代、チャップリンがモダンタイムズで戯画化した工場的な生産形態と人間関係が基本線の世界では前景化しなかった、不特定多数の人とのコミュニケーション、様々な利害、様々な特性をもつ人との、即興的・柔軟な応接力、要するに「コミュ力」が求められるが故に際立つ「適応障害」、あるいはその芽をなるべく早めに発見し「まともに・普通に」するべく動員される人々、その権力を保証する各制度・資格の繁茂。先行きの不透明な目まぐるしい社会、VUCAの時代、学び続けなければいけません、非認知能力の涵養も大事です、云々と巷では喧しい。そうした言説自体が「現実主義」を再生産してもいるし、そこで言われる「学び」の理想形は「AI」的な学びであり、学びの理想速度は資本の速度であって、結局そこでは一種類の時間しかない。変化の目まぐるしさは変化速度=資本の速度(でたらめな商品の差異化の速度)であって、多様なものが一気にやってきて流れ去りまたやってきての繰り返しのなかで、多様性という意味での豊かさ(≒開放性)とは反対に、逆説的にも閉塞感が覆っていく。

そんな「現実主義」が蔓延しているなかで、フィクションは、虚構世界はそれに抗いうるのか。この問題を主にアニメを題材に考察していく本書。半分くらい観たことがない作品だけれど大丈夫だろうか、と思いつつ読み進める。