ギュスターヴ・モロー展@あべのハルカス美術館

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展覧会情報(https://www.aham.jp/sp/exhibition/moreau/

 叡電、京阪、御堂筋線と久しぶりに電車を乗り継いで大阪へ。前売りでチケット買ってほっといたら終わりが近いことに気づき、出不精を押して鑑賞してきた。 ポスターにも使われている < L’apparition(出現)> がやはり一番見応えがあって、これをじっくり真近で見れただけで十分以上に満足だった。

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↑『出現』

 今回観たのはギュスターヴ・モロー美術館所蔵のもの。この傑作ができるまでに、モローはサロメを主題とする作品をいくつも描いている。今回の展示では、この傑作に至るまでの一連のサロメ作品を辿れるようにしてあって、いわばモローのサロメ弁証法を伺うことのできる、素晴らしい構成となっている。

 書き始めなのだから、先走ってみてもいいだろう。画像で見てもわからないこと、直接見てみないと感じれないことがあって、それはここで描かれている「血」があまりに生々しいことだ。たしかにここに描かれているのは画面内の女性サロメの幻視なのだろう。首だけが宙に浮いてるなんて、ピンポイント無重力状態が「出現」するのでもないかぎり現実には起こりえないからだ。しかし、それにしても、首から滴る血と肉片、床に溜まった血溜まりからは、血生臭さが立ち込めてくるのを感じるほどなのだ。わたしは魅入ってしまった。絵の具のマチエールが、単に色が赤で類似しているということをこえて、血そのものになっている。この画面のなかで異様なのは、宙に浮かぶ首というより、むしろこの血の物質性なのではないか。しかもそれが、背景のぼんやりとした朧げさと好対照をなしているがゆえに、いっそうこの印象は強められる。そこへ展示が紡ぐサロメ作品のシーケンスが流れ込んでくるのだ。。。と、まあ先走ったところで、落ち着いて最初からやり直してみる。

 サロメとは、新約聖書などに登場する少女だ。サロメの母は、最初の夫との間にサロメをもうけたあと、夫の異母兄弟であるヘロデ王と再婚する。そのことを洗礼者ヨハネは批判したために、サロメの母の憎しみを買うこととなる。そんな折、サロメは宴でヘロデ王を前にして見事な舞を披露する。

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↑『ヘロデ王の前で踊るサロメ

 その舞に満足したヘロデ王サロメに褒美をとらせようとする。このとき、サロメの母が、ヨハネの首が欲しいと言うようサロメに囁いた。そしてサロメはその通りに告げ、ヨハネは斬首に処されるという次第。この出来事をいかに表現するか。モローはさまざまに試みる。その試みを展示は時系列的に並べてみせてくれるのだ。

 まずは斬首直前の光景を描いた『洗礼者聖ヨハネの斬首』。

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この作品の構図が素晴らしい。高さを強調し静謐な空気感を出し、そのなかでおそらくはヨハネが祈りの言葉を口ずさんでいるのがありありと感じられる。

 次いで斬首後を描いた同じタイトルの作品。

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この作品では斬首後の首なしヨハネが手前に描かれている。そして確実とは言えないが、その首をサロメが運んでいるのではないか、と思わせるところがある。

 そして斬首の場面を中心にしてそこにサロメが立ち会う構図から一点、サロメを中心にして斬首の場面を後景化させた『牢獄のサロメ』。

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 こうした一連のサロメものでモローが試行錯誤していたのは、斬首というセンセーショナルな出来事とサロメファム・ファタルなさまを共立させて描けるか、ということだ。斬首しているまさにその切っている最中を切り取って描いても、いかにも切っていますとなって説明的だ、あからさますぎて退屈になってしまう。そんな野暮なことはしないし、できるはずもない。だから、切っている最中というのは選択肢からまず消える。省略することで、かえって見る人に想像させる、というのはよくあることだ。

 とはいえ、ではどうするか。まず直前を描いてみた。しかしそれでは十分でなかったようだ。斬首の出来事性は描けているにしても、サロメの宿命性がイマイチだからだ。ただの付添人に見えてしまう。直後を描いてみてもダメだったようだ。すでに終わってしまった感が斬首の緊張感をぼかしてしまうからだろうか。サロメが表情一つ変えず運び去ってゆくところにはミステリアスな雰囲気を感じなくもないが。かといってサロメを中心に持ってきて、サロメの内面描写を象徴的にしても、斬首の迫真性を犠牲にせざるをえない。

 そこで『出現』が出てくる。これは、サロメが踊りを舞っているときに、つまりヨハネはまだ生きていて、斬首される前の段階で、斬首されたヨハネの首が突然現れるさまを描いている。キャプションの解説には、背景の王や王妃、そして楽器の演奏者や衛兵などはこのことに気がついていないようなので、サロメの幻視であることがわかる、という感じのことが書いてあった。つまり、ヨハネの首はサロメ以外の人間には見えておらず、彼女の舞踊の結果もたらされる恐るべき運命として現れているわけだが、その幻影を見てもサロメは怯むどころかしかとその首を見つめ、舞踏を止めはしない、ということだろう。あらかじめ結末が予言的に示されているにもかかわらず、それに向かって突き進んでいく、というのは典型的な悲劇の構造だが、モローはサロメの宿命性と斬首という出来事の迫真性を、悲劇の構造で共立させることに成功したというわけだ。

 ただ、作品をじっと観ているうちに、本当にこれはサロメの幻視であり彼女の意識だけに起こったことなのか、自分にはわからなくなってきてしまった。すべてはあの血の生臭さである。そこへ展示のシーケンスが折りたたみ込まれることで、虚実は反転する。観るものはそこに斬首の出来事を幻視する。血の匂いを幻嗅する。サロメの官能的な宿命性に身震いするのだ。【了:2367字】

18世紀から引く村田沙耶香『殺人出産』へのか細い補助線

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 以前のエントリーでサラッと触れただけのディドロ談をもう少しだけ書いておこうと思った。

 まずとりあげたいのは、『百科全書』の編纂でダランベールとともに有名なドニ・ディドロが、1770年代になって執筆する政治関連著作の一つにして中核の、『訓令についての考察 Observations sur le Nakaz 』である。これは、ロシアの女帝エカテリーナ二世がものした『訓令(ロシア語で "Nakaz")』に対する逐条的な批判の形式をとったテクストだ。今回はそのなかの「考察31」を引用してみる。

「犯罪を防ぐにはいくつかの手段がある」。それはそうだろう。  

一、けっして空想上の犯罪を作り出さないこと

二、人々を幸福にすること

三、人々に自分の利害を知らしめること

四、怠惰を防ぐこと

五、刑法を穏やかなものにすること

六、犯罪者には自分が犯罪によって社会に為した悪を補償するよう命じることによってである。殺人者への真の罰は、種馬にしてしまうことだ。

 冒頭鉤括弧で示されている参照先は、『訓令』第61条「犯罪を防ぐにはいくつかの手段がある。法律によって定められた刑罰がそれである。同様に、作法を変更させるにもいくつかの手段がある。模範がそれである」というものだ。エカテリーナのこの文言には(そしてこれだけに限らず『訓令』テクストの大部分には)元ネタがある。モンテスキューの『法の精神』がそれである。この箇所に限って言えば、『法の精神』第19編の第14章である。ディドロもそれを踏まつつ、短くはあるが、刑法・刑罰に関する自説を展開する。ディドロの根底にある発想は、刑法・刑罰はたしかに犯罪に対して一定の抑止効果を有するが、それだけでなく犯罪を減少させる政策を考えるべきである、というものだ。

 最後六番目とそこから導出される最後の一文だけに触れておく。種馬にすることが殺人者に対する最大の刑罰だ、とディドロは言い放つ。そのとき彼の背景にあるのは、道徳・政治の最終目標としての「種の保存」であり、これは18世紀の人口論的発想でもあった。ただしディドロは、その刑法的帰結として、人口の減少をもたらした殺人者は、その償いとして、人口の「補償」を行うべし、とまで踏み込んだ発言=放言をするわけだ。しかも、殺人によって市民社会から排除された人間は「家畜」として扱われる。家畜になったらなったで有効利用、包摂的排除というわけである。

 いまから見れば「トンデモ」な話である。しかし、近代の起源にはこうしたその後捨象されるさまざまな着想・思想がゴロゴロと転がっているのである。私たちにとっての近代的常識は、自らの起源にあるこの「トンデモ(=ディストピア)」を抑圧し、「人権」や「人間の尊厳」という基礎で固めたそのうえに立っている。しかし抑圧されたものは回帰するのが常である。現代のバイオテクノロジーが掘り返してしまったのだ。

 ついでにもう一つ、18世紀でみておこう。種馬として生殖総動員体制に駆り立てられていたのは殺人者だけではない。もっと一般的に、当然のことながら、女性がその対象であった。ルソー『エミール』第五編の一節を引用してみる。

あなたがたは言う、女性はかならずしも子どもを産むものではない、と。なるほど。しかし、女性に固有の使命は子どもを産むことなのだ。世界にある百ばかりの大都市では、女性たちはふしだらな生活をしていて、ほとんど子どもを産まないからといって、あなたがたは、女性の役目はあまり子どもを産まないことになる、などと主張するつもりなのか。都市を遠くはなれた田舎では、女性たちはもっと単純な、もっと貞潔な生活を送っているのだが、そういう田舎が都市に住む貴婦人たちの不妊のつぐないをしてくれないとしたら、あなたがたの都市はどうなってしまうことだろう。......とにかく、こういう女性、ああいう女性はあまり子どもを産まない、といったところで、それがどうだっていうのか。そのために女性の役目は母になることではなくなるだろうか。そして、一般的な法則によってこそ、自然と習俗はそういう役目をはたさせることになるのではないか。

 ルソーは明らかに、都市に住まう女性たちの「ふしだらな生活」を嫌悪し、彼女たちに「産め!」という圧力をかけている。かけることで、産むか否かの選択の自由を否定したがっている。ばかりか、産むこと、母になることが、女性の本質・使命だとしたがっている。怖れているからだ。人間は模倣する動物である。ゆっくりとではあるが、都市の習俗は伝播する。都市の女性が子どもを産まなくなると、いずれ女性一般が子どもを産まなくなって、社会が滅びてしまう。しかしそんな直感的な怖れを、そして社会の存続が「産む」ことの意義と目的だ、と生真面目に語ってみたところで、嘲笑されるだろうともルソーはその性格上思っていたのではないか。それになんといっても逆張りのルソーである。理性による文明化はかえって抑圧による不自由と不平等を招き寄せたとひっくり返して見せたルソーである。そんな、理知的営為の嘘臭さには人一倍敏感だった人物が、産むことの理由に対して理知的な答えがあると本気で思っていたとはとても考えられない。そんな答えはどうにも嘘臭くしかならないのである。だから逆に、ルソーのような人に、どんなに理知的な反論をしてみたところで、決して説得できないだろうし、当のルソーは「産め!」と言い続けるだろう。

 ルソーはいわば「腕力」の人である。果たして、先の引用文中で、その腕力が直観的に掴みとったのが、「自然と習俗」という一般的法則である。「産まない!」にせよ「産め!」にせよ、どんなに理知的に語ってみたところで嘘臭くしかならないにもかかわらず、産むか産まないか、をめぐる種々の(理知的な)語り口は現代では「生殖倫理」と題され、その議論の水準をたしかに向上させてきたにもかかわらず、そんなこととは無関係に、これまで子どもが作られ、社会が存続してきたということ。というよりも、どんな答えになろうとも、生まれてこないほうがよかった、産まないほうが自然だ、という答えになろうとも、そもそもそんな話がされるのは、そのように語る人たちも必ず、どこかで子どもが作られてきたし、作られているし、これからも作られていくのだろう、と思っているからだ。当てにされているのだ、産まれてくることが。そんな「どこかで...」の水準を、理性とは決定的に異なる水準を、ルソーは「自然と習俗」として掴んでいる。

 冒頭のディドロを振り返りつつ、上記二テクストの文脈を離れて、こう考えてみたい。そもそも殺人なるものが生じるのは、人間という存在が肉体(という自然)を有しているからである。元も子もないと思われるかも知れないが、しかし厳然たる事実として、肉体=自然を有していることが、殺すこと/殺されることの可能性の根本的条件である。同様に、家畜として、産む容器として、種馬として、強制的に生殖をさせるにしても、その可能性の条件は人間が受肉しているという「自然」であり、罪深さである。しかもディドロが種馬という時に自明視しているのは異性愛性行為による生殖である。見ようによっては、生殖罰を被る人にとって、その処罰の強制性は、異性愛それ自体にもある。そして言うまでもなく、キリスト教においては受肉していることが罪だ、しかも原罪だ。死をもって罰とするのだから。

 そんな罪深い肉体で生殖もまた繰り広げられている。そもそも罪深い肉体で繰り広げられる「ふしだらな」生殖に結びつかない異性愛性行為の快楽を都市部の女性たちは謳歌している。そこで露わにされてしまうのは、受肉という原初の罪責性である。異性愛性行為は生殖でなければならない。産まなければならない。原罪を背負っているにせよ、神が「生め、殖やせ、地に満ちよ」と命じたからには、異性愛性行為=生殖行為は、辛うじて許されるかもしれないのだから。そして生殖を懲罰とすることで殺人もまた、辛うじて許されるのかもしれないのだから。そんな肉体を考えること。もちろん、その肉体はさまざまな善いことの可能性の条件でもある。だからこういうべきだろう。受肉していることの原初的な罪深さとは、道徳的な善悪を超えた価値評価であると。だからその罪深さ、罪責性、強制性は、楽園を喪失したこの地上のいかなる人間的な価値によっても贖われることもなければ祓われることもないのではないだろうか。

 ここまでを踏まえたうえで、わたしは改めて『殺人出産』の最後の場面、姉を幇助し育子が早紀子と胎児を殺した際に「産み人」となる決意をする場面をじっくり考えてみたいと思った。【了:3712字】

 

殺人出産 (講談社文庫)

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エミール〈上・中・下〉3巻セット (岩波文庫)

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8月25日〜31日で読んだもの徒然

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村田沙耶香さんの『消滅世界』『となりの脳世界』『地球星人』、そして『殺人出産』の部分的な再読。そのほか、一部のみ読んだものとして、『〈妊婦〉アート論』、『文學界』2019年8月号、『現代思想倫理学の論点23)』2019年9月号など。

 村田沙耶香さんの問題意識の一つとして、異性愛的バイアスを取っ払ったうえで、いかに「肉体」に接近するか、いかに「肉体」を享受するか、その文学的開発というのがあると思っている。言い換えればそれは欲望の問題でもあるわけで、いわばなぜ人間は受肉しているのか、という問題にがっぷり四つで村田さんは取り組み続けている、と言ってもあながち間違いではないと思っている。

性的でない肉体関係の候補として、例えば『星が吸う水』所収の「ガマズミ」では「出産」「殺人」そして「ガマズミ(女性性器を用いた非性的肉体関係)」)が挙げられていた。これをたまさかに、肉体三関係としておこう。

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事実、『となりの脳世界』を読むと、例えば「日本橋を徘徊した日々」で、『星を吸う水』の執筆時期、そして今に至るまで、肉体への強い関心があることがエッセーで綴られている。面白いのは、このエッセーで肉体への関心が語られる文脈は「食」を主題にしている。肉体を拠点に(当然と言えば当然だが)食と性欲の繋がりが村田さんのなかで強い関心事の一つであったのだろう傍証が得られる。

そうしたことを踏まえてみると、『地球星人』では再生産工場たる小説内現代社会から逃避した主人公を含む三人が限界集落の古民家を舞台にユートピア創設を目指し、その営みの果てにカニバリズムや男性妊娠に至る「衝撃」の作品だ。

また、肉体三関係のうち、出産と殺人を直接に取り上げ、しかも両者が円環でつながれた「ディストピア」を描いたのが『殺人出産』だ。この作品の優れた批評が読めるのが『〈妊婦〉アート論』。そこに収められた藤木直美さんの論考は、斎藤美奈子さんの『妊娠小説』を踏まえて、女性作家による「妊娠」表象を文学史に辿り、小川洋子『妊娠カレンダー』などを一つのモメントとし、果ては村田沙耶香『殺人出産』において「妊娠を奪取する」 に至る系譜を論じている。

『殺人出産』の描く世界はこうだ。10人産めば1人殺す権利が与えられる、殺される当人は「死に人」と呼ばれ、出産を終えて殺人を執行する「産み人」から当局を通じて一ヶ月前にその通達が届く。戦時下総動員体制および「赤紙」を想起させるこの作品世界は、異性愛恋愛結婚出産家族を一揃いのものとして流通させた近代国家を再生産総動員体制として批判するわけだが、その批判を当の体制の徹底化→反転によって至る一つのディストピアを描くことで成し遂げている。

この「ディストピア」のなかで主人公が最後に逢着する地点は大変に興味深かった。産み人となった姉の殺人執行を幇助する主人公は、姉と共に、死に人の肉体だけでなく、死に人が孕んでいた胎児の肉体をも享受する=殺すことになってしまう。懐妊の事実を知らず、まさにたまたま二重殺人になってしまったわけだが、殺人という肉体享受を経たあとで主人公はその偶然の死を我が事として引き受け、産み人になる覚悟を決める。国家による再生産総動員体制とも異なる次元に至った主人公のラストは、人間はなぜ子供を産むのか、人間はなぜ受肉しているのか、という問いを考えるうえで貴重な一歩を記しているように思われる。

再生産の問題は『消滅世界』でも引き続き、そしてより長い紙片が費やされて展開されている。性と生殖がテクノロジーによって完全に分離されており、男女の肉体的性交による妊娠出産は忌避されそもそもの性交さえ忘却されかかっている。そんな近未来的世界のなかにさらにできたのが千葉の実験都市だ。そこで繰り広げられるのは生殖コミュニズムとでもいえそうなものであり、再生産は完全に国家が管理する人工出産に託され、(核)家族形態は廃棄され、生まれてきた子どもは国家管理で、住人全員が育てる(しかし愛玩動物と同じような仕方で)世界だ。

殺人出産にせよ消滅世界にせよ、あるいはさらに前の作品にせよ、そこでは異性愛バイアスや再生産総動員体制に鋭い激烈な批判が繰り出されていることはたしかである。しかしいずれにおいても、肉体の享受や、再生産それ自体が全否定されているわけではないことには注意しておきたい。生まれてこない方がよかった、生まない方がよい、といった反出生主義的方向性に進まないのである。あるいは、なぜ生むのか?という問いに、反出生主義をはじめとする理知的なアプローチもありうることが、村田沙耶香さんの場合、何よりそのベースに肉へのアプローチの模索がある点が特徴的だ。生殖の問題を肉(欲望)のレベルで考えようとしている、ともいえるだろうか。ただし、この論点は、藤木直美さんが女性作家の系譜からみた以上、その成果はさらに、男性作家の側にも系譜を見ることで、その到達点を図るべきだと思う。例えば佐川光晴さんとか。 

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この点、最近話題の川上未映子さんの『夏物語』どうなんだろうと思う。細かく読んでいかないといけないんだろうけど、大きなところとして、反出生主義的問いに対しどう応じるかをもって「なぜ生むのか」「生んでいいのか」に答えようとするも、答えられない=答えても間違いにしかならない、と見切ったのか、主人公の夏子は「忘れるよりも間違うことを選ぶ」と決めて生む。この展開に対し評者の反応も様々だ。

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というわけで、そもそも反出生主義ってどんな話なのか、そしてどう受けとめたらいいのかを考えたいなと思い、冒頭に挙げた『文學界』や『現代思想』を眺めてみた。夏物語を読みながら私が思い、この文芸誌や思想誌の記事を読む前に抱いていた漠然とした考えというのは、こうだ。そもそも何が善くて悪いのかの価値観・判断基準自体が生まれてきた世界のなかで作られ獲得されたものなのだから、その世界内部のもので、その世界自体を作った世界外の物事(すなわち、出産(誕生)=創造)を裁くということは論理階層の混同ではないのだろうか?というものである。いわば、人様の分際で神を裁こうという、土台できっこない(すべきではないというのではなく)のではないか。

文學界永井均先生はわたしの思っていたことをさらに哲学的にお話ししていた。現代思想ではズバリ、反出生主義の嚆矢ベネターについて論じられている。 ただわたしは永井哲学を会得していないし、ベネター読んでいないしそれに対する哲学的批判も難しくてまだ未消化なので、本当のところ、わたしの思いつきがいかほどに良い筋なのか、やっぱり誤解・誤読の産物でしかないのか、まだわかっていない。【了】

 

消滅世界 (河出文庫)

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となりの脳世界

となりの脳世界

 
地球星人

地球星人

 
〈妊婦〉アート論

〈妊婦〉アート論

 
文學界2019年8月号

文學界2019年8月号

 
現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

 

 

 

 

川上未映子『シャンデリア』読んだ

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流し読み。女性だけの世界。母子物語。ハイブランドが軒を連ねている。

「こんなに若くてこんなに肌がきれいでこんなに何も考えていなそうでも、彼女たちのなかにはすでにどうしようもないものが淀みながら渦巻いていて、彼女たちを内側から少しずつ追い出そうとしている」

なんなんだろうなこれって。

川上未映子さんの『夏物語』の書評・インタビューのクリッピングとメモ

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Web上の書評[⑴〜⑺]・インタビュー[⑻〜⑽](順不同)

⑴ライター・書評家・長瀬 海「川上未映子が「夏物語」で問うたものとは」(https://dokushojin.com/article.html?i=5280

⑵翻訳家・鴻巣友季子「生の“つくられ方”への戸惑い」(https://allreviews.jp/review/3615

ジュンク堂書店滋賀草津店・山中真理(無題) (http://www.webdoku.jp/cafe/yamanaka/20190808101927.html

俳人・神野紗希「新しい時代の生殖倫理映す」(https://www.nikkei.com/article/DGXKZO48633070W9A810C1MY6000/)。

⑸読売新聞本社編集委員・尾崎真理子「夏物語…川上未映子著」(https://www.bookbang.jp/review/article/578938

社会学者・上野千鶴子「女たちの「処女生殖」の夢 父の不在と母の過剰」(https://www.bookbang.jp/review/article/577798

⑺文芸ジャーナリスト・佐久間文子「芥川賞受賞『乳と卵』でのテーマを新たな長篇として」(https://www.bookbang.jp/review/article/576364

⑻樋口薫「出産は善? 考え続ける 『夏物語』 作家・川上未映子(みえこ)さん(42)」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2019072802000168.html

⑼阿部花恵「生まれてくることの取り返しのつかなさ『乳と卵』の先に誕生した川上未映子の集大成『夏物語』【インタビュー】」(https://ddnavi.com/interview/547344/a/

中村真理子川上未映子さん「夏物語」インタビュー 産むこと、産まないこと、生きること」(https://book.asahi.com/article/12611552

※※※以下、内容の要約とツッコミ※※※

⑴の評者はこの作品で二点「腑に落ちない」という。一つは、この作品が第二部だけでも成立したしさせられたはずなのに、なぜわざわざ自身の代表作『乳と卵』を焼き直したのかがわからないというもの。もう一つは、善百合子が提示する問題提起、子を産むことの暴力性・利己性に対し、作者が導いた解答はその問いに答えるものになっているのか疑わしいというものである。

←一つ目の疑義は、リライトによって「物語の構造に変化はさほどない」と評者が見切っているがゆえに「腑に落ちない」のか、それとも作家が自身の代表作を「焼き直す」ことそれ自体が評者からすれば評価できないのか、そのいずれもなのか、多少迷わされる書き方である。とまれ、建設的に受け取るならば、このリライトをどう読み手が捌くかが問われている、と言えるだろう(以下、リライト問題)。提出されたもう一つのほうは解答問題とでも呼べるだろうか。

⑵ではまずはじめに、生殖・出産の暴力性と、その「全過程を物理的にはほぼ女性だけが担うことの[......]不均衡に対する違和感、懐疑、問いかけ」がこの作品を通してなされていると指摘される。そのうえで、まずリライト問題については、『乳と卵』の大幅な加筆であることが指摘され、そこに女性性を帯びてゆく体への違和感の描写を見ている。また夏子はアセクシャルなのか未成熟なのかはわからない、と慎重なコメントをしている。たしかにそうである。加えて、善百合子の名前の象徴性について、「百合という植物は種子がなくても球根で増えていく」ことが指摘されている(そしてそこに「善」を付した作者の技法と意図もあからさまである)。解答問題については「容易に答らしきものに誘導されることを拒む」とあり、男性がはたす役割があるのかが問いかけられている。

←出産の暴力性に加え、出産の性的不均衡についての問いも読み取られている。リライト問題については、大幅な加筆を認めるつつ、通底する要素として身体の女性性の問題が挙げられている。また解答問題それ自体については踏み込んだ発言はない一方、最後の問いかけは生殖出産における男性の不要性の確信を反語的に表明しているようにも感じるのは勘ぐりすぎか。

⑶では、評者が一読者として作品から受けた印象が比較的豊かに記されている。本作品は『乳と卵』のリブートとAIDによる出産における生殖倫理の問いとからなるとし、リライト問題に関して、生殖倫理の問いへと至るまでの登場人物の過程を描くのに必要かつ自然なことであったと肯定的に評価している。とりわけ、豊胸、筆談、女性的身体への違和感、出産の拒否が抽出されている。関西弁と標準語とからなる文体に対する印象もある。解答問題に関しては、問い(生む側の身勝手な賭け)の強烈さが語られている。

←「生殖倫理」だと言われている。そしてリライト問題については、深読みするならば、登場人物の造形に際して、長編である『夏物語』では短編の『乳と卵』と異なる立ち上げ方が要求されるがゆえの必然であったとの評を与えていると言えるだろう。その意味で⑴⑵よりも踏み込んだうえで重要な指摘をしていると思われる。

⑷は全10個のクリッピングで唯一、評者自身の経験を交えて語り出されている。そして結論問題に関して、本作品を「「女が決めて、女が生む」新しい時代の生殖倫理」を描き、「夏子の姿を一つの仮の答えとし、生の肯定を形にしてみせた」と見定めている。リライト問題に関しては、リライトに左右されない箇所が抽出されている(生んだ当人が生んだ結果苦しむのは当然その当人のせいであること、および生まれたのは生まれてきた側の責任ではないこと)。そのほか、小説世界で再生産されるのが女性だけであること、また女性の場合、なぜ生まれる(そして死ぬ)のかの問いと産むか否かの問いは不可分であること(生−産)も指摘されている。

←⑵同様、生殖における性的不均衡も問題視されているが、なにより「生−産」の肯定を答えとして読み取っている点は他に比して踏み込んだ評だと言えるだろう(評者自身が出産を経験した以上、そこはそう読むほかなかったのかもしれないが)。とはいえこれでは解答問題は解決ないし解消されない。解答問題の問題としての精緻化が必要なのかもしれない。

⑸では「産む意志をめぐる問い」と言い切られる。リライト問題に関しては、詳細な語り直しであるとだけ言われている。解答問題については、最後に問いの形でこう述べられている。「それでもなぜ、人は生まれてくるのだろう。路面の情景の中に、しばし佇(たたず)んでいたくなる。」

←他の書評やインタビューのような「なぜ産むのか」や「産むことは善なのか、正しいことなのか」ではなく、「それでもなぜ、人は生まれてくるのか」という、能動態とも受動態とも言い切れないような、主体が宙吊りにされている感のある問い方の、ささやかだが決定的な差異は注目に値するのではないかと思っている。この作品の主題を生殖倫理と言い切ってしまうことに問題があるのかもしれないとさえ思うのはわたしの深読みのしすぎか。

⑹にはリライト問題に関する記述はなく、解答問題に議論は集中している。曰く、この作品は「産むこと」の自己決定とは何か?という、怖ろしい問いに正面から立ち向かうものである。なぜ「怖ろしい」のか。それは産む側は「選択」を意志できるが、産まれる側にはそうした意志がないという、「目の眩むような非対称性」がそこにあるからだ。言い換えれば、産むことのエゴイズムとその暴力性の自覚である。評者自身はその怖ろしさを前にして「立ちすくんだ女だ」と告白している。そのうえで、作者の答えが自分を納得させてくれるかどうかを、目の眩むような非対称性の暗渠を怯まず飛び越えさせてくれるような答えを与えてくれるのかどうかを見定めようとしている。作品では、取り返しのつかない間違いを犯すのかもしれないが、それでも忘れることより「間違うことを選」び、はたして「何もこわくない」境地にいたる夏子が、そして娘の出産の感動が、解答として提出されている。そして見切られる。「この世界に男の居場所はないのだ。産むこと、生まれることについて考え続けるのは、なぜ女ばかりなのか。/作者はわたしの疑問に答えてくれなかった。答えは、たぶん、ない。ないことを、作者は自覚している。だが、それでも女たちは目をつむって暗渠を飛び続ける。いつまで?」

←解答問題が問題として精緻化されている。「なぜ産むのか」、「なぜ産め(続け/てい)るのか」、そして「なぜ産めたのか」の三つである。牽強付会を承知でこう言ってみたい。評者は、「産めた」作者が「なぜ産めたのか」という事後的な問いに対して作品内で「なぜ産むのか」から辿り直して導く答えが、いまだ産んでいない女性たちを「産める」ようにする「本物の魔法」(『ヘヴン』文庫版153頁)となるかが問題であるとしているのだ。

⑺リライト問題について、『乳と卵』で提出された「なんであたしを生んだん」という哲学的な問いは、「子どもを生むか、生まないか」に形を変えて『夏物語』に引き継がれているとする。解答問題について、夏子が子どもを産みたい理由ははっきり説明されておらず、彼女自身も整理しきれないようだが、他の女たちの見解に耳を傾けたうえで、夏子は自分らしい選択をして、新しい一歩を踏み出している、と読んでいる。

←⑹での精緻化を踏まえれば、この評はリライト問題が解答問題と繋がっていることを一文で表現していることがわかる。そのうえで、やはり⑹の読み筋一つ目でみたように、事後から事前へ遡ってどんなに答えを捻り出そうとも虚偽に見えてしまうジレンマは脱しえない、と言わざるをえないように思うのだが、どうだろうか。

⑻「人はなぜ子どもを産むのか」「産むことは善いことか」の問いを扱った小説であること、そしてその問いは「なぜ殺してはいけないか」の問いに匹敵する哲学的難問であることが指摘されている。リライト問題については、『乳と卵』における女性たちの体や意識の変化を一から再構築してより大きな物語へと展開するためであったと言われている。夏子は「自分の子どもに会いたい」との思いに突き動かされ、AIDでの出産に行き着くが、「子を産むことが善である」と前提しているこの技術は、はたして何を守る技術なのか、生まれてきた子どもたちはどこに位置づけられるのか、などが問われるべきだという。作者は読者に「結婚して子を持つことが当たり前でなくなった現代に、独りで子を産むことができるのか」を夏子と一緒に考えることを期待しており、そのために夏子を「まだ名づけられていない関係性の中に」置いたと言う。解答問題については「むしろ謎は深まるばかり。今も考え続けています」とのこと。

←生殖技術の発展にともない、性と生殖の分離が顕著になることで、生殖は理知的・倫理的水準で判断されなければならない事柄となったため、「なぜ子どもを産むのか」という問いは、「なぜ人を殺してはいけないか」と同等かそれ以上に答えるのが難しい問題となった、という認識が記されている。そのうえで、「独りで子を産むことが」、技術的・社会的・経済的・政治的・倫理的に「できるのか」の解答はいまだないと語っている。

⑼。冒頭、「なぜ自分の子どもが欲しいのか」とある。この形は⑼に固有である。リライト問題について、『乳と卵』では書かれるべきことが多く残されていたが当時は技量不足で果たせなかったため、「彼女たち3人の身体と意識、それから背景をもう一度ちゃんと書くことで、生殖倫理の問題[生むことの取り返しのつかなさ]まで一気に語り直したかった」と語られている。解答問題について。インタビュアーは作品の主題を「この世界に産むこと/生まれてくることは、本当に善い正しいことなのか?」と述べている。生−産を倫理(善)および正義の問題として受けとめていることが記されている。なぜ倫理に加えて正義(公正)の問題が出てきたのか。おそらく作者の次の発言を受けてのことである。曰く、「これまでは有効だった常識やシステムが、今はもう疲弊していますよね。そうなると人って、つい次のロールモデルを探したくなるんだけど、でも本当は前例がないことをやってもいいはずなんですよ。出産ひとつを例にとってもそう。産む年齢とか誰と一緒に育てるとか、誰かの顔色を見て決めなくてもいい。外部の基準を一回全部取り外して、怖がらずに全部を自分で決めていい。私たちは本当は、名付けようのないものを生きているんだから。世間が思う“女”なんかどうでもいいんです。自分と、自分の中の“女”の部分を、誰にもジャッジさせちゃいけない。そんな風に読んでくれた人をエンパワメントできる物語になっていたら、作者としては大きな喜びですね」。これは出産の「選択」の自由が、女性にかかる家族・社会からの外圧によって不当にも歪められていることへの批判である。だから正義=公正さも問題にされているのである。加えて、少なくともこれだけを読むと、作者は出産を利己的なものと思う一方で(⑽の要約を参照のこと)、生−産をの性的非対称を批判しつつも、事柄それ自体は肯定的に捉えたい欲求もあることが読み取れる。また、作者による次のような発言も掲載されている。「[この作品は]女性たちの連帯、シスターフッドだと思える部分も確かにあるのですが、それだけの物語ではなくて。性別に関係なく生きていくことがどんだけ痛いかっていう、痛みの物語だともいえるかもしれません」。

⑽において、リライト問題はその動機だけが語られており、⑼と同様である。結論問題については概略次のように語られている。生むことは善であることの自明視は、例えば産んだ理由は尋ねられないが産まなかったら尋ねられるし自問もすることの非対称性に現れる。しかし既存の価値観によって誰かの人生を価値付けることはできない。というのも、生殖技術の発展にともなう性(欲)と生殖の分離の顕在化は、「女性にとって産まない方が自然」であるという考え方も十分に支持するものとなりうるからである。だからこそ、出産の利己性が問題として浮かび上がる。だがこの問題は、考え続けるしかない。

 

 

 

 

 

 

8/18公演の劇団四季『ノートルダムの鐘』を観劇してきました

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劇団四季の『ノートルダムの鐘』を観劇。すごいものをみてしまった。腰が抜けてしばらく呆然としてしまった。

十字架に縛られて火刑に処される最中カジモドに救出するもこと切れるエスメラルダ、その瞬間を片手の動きだけで表現したところではハッと息を呑み、その彼女をカジモドが抱きかかえて立ち客席に向いたときの様は、ミケランジェロピエタ像をありありと彷彿させる美しさだった。見事な記号の逆転。

寺元さんが舞台で怪物カジモドに転じた瞬間からもう圧倒されていた。祝祭にカジモドが向かうときにさらっとボロではあるが赤の羽織を着せる色の記号の行く末は劇中ずっと追いかけていた。赤は権力者を示す記号でもあるからだ。また、カジモドがフィーバスとともにエスメラルダを探して奇跡御殿へと向かうときの路地の表現の仕方や、カジモドが火刑に処されるエスメラルダを救うべく人の間を縫って駆けていくときの表現の仕方、ジプシーの蜂起と警備隊との衝突から聖堂へ押し寄せたとき、煮えた鉛の入った大鍋をぶちまけるシーンの布と照明の演出など、大変に見事だった。そしてたった一度だけ登場するルイ11世の演出も興味深いものだった。原作ではルイ11世は監禁を彷彿とさせるようなイメージで表現されている。城壁沿い=パリの境界線上のバスティーユの暗い部屋で、醜く体を折ったたひどくみっともない格好で、服装も黒でボロボロの、膝も内側に曲がったジジイである。つまり赤毛でX脚のカジモドそっくりなわけだが、カジモドはといえば赤く燃え盛る大聖堂と一体化している。対して『ノートルダムの鐘』では赤のビロード(?)でファーのついた優雅なローブを羽織って恰幅は良いのだが、いかんせん背の小さい、言ってしまえばずんぐりむっくりの、滑稽さも感じさせるような出で立ちで、背の高く体格の良いフロロと並び立つとどちらが「上」かは明瞭、しかも一言二言でルイはフロロの手駒であることが表現され、フロロが表地は黒だが裾に覗かせる裏地の赤のローブを着ていることで、その意味は嫌でも感得させられる。そしてこれきりルイ11世は舞台から消し去られる。舞台で繰り広げられる司祭=警備隊と民衆=ジプシーの抗争に、王の居場所はないと言わんばかりだ。ではその抗争の行方は?たしかにカジモドによって司祭フロロは葬られるが、そもそもカジモドは聖堂に押し寄せる警備隊とジプシーともどもめがけて煮え鉛を放つ点で、なし崩しにしたようにも見える。

そしてこのアダプテーションで最大の難問は、ユゴーの描くノートル=ダム大聖堂をどう表現し体験させるかだろう。外観を眺めることもできないし聖堂内部を歩き回って眺めることもできないからだ。しかしだからこそのミュージカルだったのだと思う。ユゴー曰く、ノートル=ダムは「巨大な石造の交響楽」であり、「一定の建築様式にきちんとくり入れられるような建物ではけっしてない」「複雑な統一を見せ」る「過渡的様式の建築」である。言い換えればノートル=ダムは都市的現実を体現する多声的な建築なのだ。ミュージカルが換わってその多声性を見事なハーモニーへと奏であげるとき、それはエスメラルダを想う三者がそれぞれの一見すると不協和な心情が歌い上げられると見事に協和する瞬間であり、にもかかわらず一つ一つの声と想いが掻き消されずに観る者の魂を揺さぶる瞬間であり、そのときまさに聖堂が体験されるのではないかと思った(もちろんこれだけに限らないが)。観れてよかった、本当に。【了:1435字】

恩田陸三昧。ツイッターのつぶやき転載のみ。

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恩田陸さんのデビュー作『六番目の小夜子』、面白くて一気読み。物語ちょうど半ばでの1296人による朗読劇は圧巻、飲み込まれた。恥ずかしいほどに自分ナイーブだなぁと思った。ただ、どんどん種明かしされていくにつれ、えーこの人なんか、というどこか拍子抜け感もなくはなかった、正直なとこ。20190815

 

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恩田陸さんの『不安な童話』読んだ。隠されたor抑圧されたものの認知をメインにするとオイディプス王のような典型的な悲劇になるところを、認知後の隠蔽をミステリーへ配分し(二人分)、抑圧に伴う寝言譫言を既視感転生のオカルトとミックスさせ推理を引っ張り果てにオカルトも解く物語、と思った。20190815

 

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恩田陸さんの『黄昏の百合の骨』読んだ。雨は降らず風だけ異様に強いという、なにかが起きそうな前触れ感しかない夜にこういう本を読むと嫌でも雰囲気がそれらしくなって、一人で飲みながら読んでると妙な気分になるものだな。最後ちょっとわからないところもあった。

こええよな、神様って

どうして?

だって、あんなに沢山の人間が自分のために死んでるのに、ずっと知らん振りしてるんだろ?

→怠惰な神って話、西洋思想史でなかったっけ?あるいは、17世紀くらいに神の恩寵の一般性の話で、神は個別にではなくカテゴリーで救済するのだってロジック、なかったっけ?

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ツイッターで『夜のピクニック』を勧めてもらった。明るそうな話。今度はそれを読んでみようと思う。