留保の感覚、あるいはネガティヴケイパビリティ

朝ランは12キロ58分。これくらいは当たり前にできるゆとりレベルになるとよい。次の日は軽めにとかではなく、このくらいのを毎日やっても平気という意味でのゆとりレベルに。言い換えれば毎日(毎朝)小一時間ジョグできる脚にするということ。まぁ焦らずやってきましょ。

フェア企画の商品選びが予想以上に面倒。加えて得意先リストのチェック、相変わらずの社内ディスコミュニケーション具合、明日は祝日と言い聞かせて辛抱する。

隙間時間に仕事するフリをしながら論文やら本やらを読む。スマホ時代の哲学、人新世の経済思想史、カントの社交論についての論文など。スマホ時代の哲学では、ニーチェの警句からオルテガによる都市の大衆の批判的記述へとつなげられるところまで。オルテガは名前だけ知っていて読んだことがなかったので、そんなこと言ってたんだと面白かった。たとえば、

「ところが今日、現代人は世界で起こるすべてのこと、あるいは起こるはずのすべてのことについて、非常に厳格な「考え」を持っている。必要なものはすべて自分の中に持っているのだとすれば、どうして人に耳を傾けるべきなのだろうか。今や聞く理由はないどころか、判断し、宣言し、決めつける理由がある。」

このオルテガの言葉を受けて著者が現代で言えばこういうことだよと噛み砕いて、

「自己発信やセルフイメージばかり気にしているし、自分の考えは疑わないし、専門家にも自信満々にリプライ飛ばすし、疑似科学を信じた人が謎理論に則って「これだから情弱は」とか言って科学者を馬鹿にするし……。」

と展開しているところは思わず苦笑い。ニーチェオルテガ=著者のラインから見ると、現代人はかくも饒舌な独断と映る。独断という電話に引きつければ、これはカント論文の内容と重なると思った。饒舌な独断に陥らないためには、ある種の留保の感覚をどうにかして涵養しなければならないはずだし、そうした留保をとる立場をカントは「複数主義」と言っているようだし、同じことをオルテガを参照しつつのスマホ哲学の著者に言わせると

「どんな些細な変化も見逃さずにいようと静かにして耳を澄ませ、どんな対策をしても絶対はないと疑い、自分だけは大丈夫などとは思わず、安易な判断や決めつけを避けて、いろいろな人と協力し合いながら」

物事を見極めていくということになるようだ。答えを急がないこと、その「ない」という否定性に基づいて、こうした留保一般の「能力」を最近では「ネガティヴケイパビリティ」というらしい。勉強になった。ただ、こうした留保の感覚をケイパビリティといった「能力」系の語彙で概念化してしまって果たしてよいのだろうか、という疑問がよぎりもした。「能力」といった抽象的な価値基準こそを昨今イデオロギーとして立派に趨勢を極めつつあるフェミニズムの思想的な最高地点は批判してきたと思うからだ。それとも「ケイパビリティ」はそうした価値基準としての「能力」ではない用語なのか、判断がまだつかない。

定時で帰路。銭湯のち夕食街中華。家族経営の店で春から小学一年の息子を手懐ける行きつけ。その少年と戯れながらレバニラと餃子、生中二杯。「ねぇねぇ、みんな透明のマスクしてたらどうする?」という少年の言葉に考えさせられたのがハイライト。どうしようか。わからない、けど、どうする?と自問してみる、そんな留保の感覚、想像力、いやここはネガティヴケイパビリティというべきなのか?けど少年のこの問いかけのトーンは、そんな負性の、耐えるといったニュアンスからはほど遠く、想像的でありながら/だからこそ、軽やかで、わたしは後者のほうが好きだなと思った。