積読は積徳なのだろうか

アクセス数は自分がタップした回数という実に貧しい自分語りのブログを再開して一応続けているけど、それにしても自分がアクセスしたことまでアクセス数にカウントするのは設計的にどうなんだろうかと首を傾げてしまう。とはいえ誰にも読まれないけれど読まれうるという可能性があるだけで書く動機になりうるというのは考えさせられる。読まれないと思っているからこそこんな文章を吐き連ねられるのだし、しかし読まれるかもしれないからこそアップし続けるという、本当にうんざりする自分の承認欲求とその浅はかさでもある。

妻とはセックスレスで最後にいつしたのかも覚えていないくらいご無沙汰で、かといってそのことで深刻に悩んでいるわけでもないのだけれど、悩んでいないのは私の方だけかもしれず、それこそ先日妻が悪夢を見たといって語った内容は下世話な夢解釈をすれば、そろそろあなた子どもを作るなら作る覚悟を決めて作らないと、とでもいうような内容で、私は聞いた途端に自分のこの解釈を言いそうになってぐっと飲み込み静かに静かに出勤の自転車こぎで吐き出した、そんな記憶を一二週間ぶりの今夜酒を飲みつつ反芻している。

新刊その他書籍を5冊購入。読めないのに買ってしまう。読めないのだからもう買わないと何度言い聞かせても、ふと頭をもたげて欲望がナッジして気づけば買っている。普通におかしい、ヤバいという意味で。いつ読むんだ、いや、読む時間はあるのに、ゲームしたり自慰したり走ったりボーッとしたりして、湯水の如く流し去ってしまっているだけなのだ、と気づいている。けどそれまでだということは、やはり私は本を読み書くという、研究者の資質を持ち合わせていないし持ち得る可能性もないのだなと再確認した夜だった。