それでもなお、煙を立てなければならない

網戸から入る蝉の鳴声、エアコンの室外機がたてる低音、扇風機は仕事をしてはいるものの、強い日差しに歯が立つわけもなく、諦めたように首を振り続けている。

先日渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んだ。三十路で一念発起パン屋の修行をする傍らマルクスの『資本論』を読みその資本主義の分析を自身のパン作りとクロスさせ、「菌本位制」や「腐る経済」といったユニークな、しかし鋭い資本主義批判を展開するとともに天然酵母によるパン作りと彼の生き方の困難と魅力を存分に伝える本となっている。資本主義批判を生きるそのスタイルに多くの人が触発されるであろう。そこにこんな話がある。著者の渡邉格さんは二十代半ばで父とハンガリーに滞在すること二ヶ月、彼らは「日本人会」が開く歓迎パーティに招待される。そこに集った同年代の華やかさを前にした惨めさに耐えきれず、隅で煙草を吸っていた彼のもとに、バレエをやっている女の子が寄ってきて次の一言をかけた。

「タバコって、ヨーロッパでは、ハイ・ソサエティになればなるほど吸わないものなのよ」(文庫版175〜176頁)

これを聞いて惨めさをさらに募らせた彼は、以来煙草をやめたと記している。近代以降、人は何者にでもなれる自由を手にしたが、それは翻って何者かにならねばならない焦燥感へ、何者にもなれない場合は劣等感へと、人を絶えず駆り立てるものでもある。

この話は90年代半ばのものだが、当時すでに、喫煙は下流以下の人間の悪癖に属するかのような様相を帯びていたようだ。もちろん、煙草はロウ・ソサエティ以下の人間にとって安価なストレス解消の一手段だが。

日本においても、中流以上の喫煙者の割合は減少しつつあったはずだ。とりわけ再生産装置の最たるものである学校でのプロパガンダが奏功したのであろう、若年層の喫煙率は低い。なんとか大学に進学したものの落ちこぼれであった私はすでにして高校後半から喫煙者であり喫煙者の友人に囲まれ、選ぶバイトにも喫煙者が多かったため、当時の実感としては喫煙者減少の印象が希薄ではあったのだけれども。

そんな学生のころの話である。キャンパス内にあるプレハブの喫煙所から一歩出てタバコを吸っていたら、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。「てめぇコラ、おい!ざけんなよ!」とその声は言う。誰か喧嘩でもしているのか。煙を吐きながらその怒鳴り声の方に顎を向けたら、その声がさしていたのは私だった。「聞こえねぇのかお前だよ!殺すぞ!」と喚きながらズンズン近づいてくる。「てめぇはその箱んなかで吸えよ!一歩たりとも出たくんじゃねぇクソが!マジで殺すぞ!」とまくし立ててくる彼、私は意味がわからず思わず後退り、背中に夏の日差しを浴びたプレハブ小屋の壁が焼きつくのを感じた。指間のピースからは火が消えた。

よくしてもらっていた非常勤のフーコー研究者に後日昼食を一緒にした際この話をした。数日誰とも口をきいてなかった奴がバグを起こしたと思って、というのがそのときの冗談まじりの返事だったと記憶しているが、腑に落ちなかった。たかが煙草の煙である。しかも最初は50メートルの距離があった。あまりに神経症的、あまりに感情的ではないか。

 水泥棒め……。

 尊彦の言うように相手が変な男などではないらしいのにほっとすると静子は無性に腹が立った。水道料の気がかりや相手のすばしこさが癪に障ったのではない。自分の家の水を垂れ流しにされること自体に我慢がならなかったのだ。頭に血が昇って動悸の高くなっているのがわかる。一瞬、犯人を捕えてその細い首を両手で締め潰したい欲求に駆られた。たかが水道の水くらいのことで、と一方では考えるのに、我ながらおかしいほど熱[いき――引用者註]り立つ気持ちをどうすることも出来なかった。*1

単身赴任の夫に家を託された初老の女性の言である。ほどなくしてこの事件は隣家の小学二年生の少女の仕業であることがわかる。「たかが水道の水」であり、たかが子どもの仕業である。それに対し引用のような「どうすることも出来な」いほどの殺意と憎悪を抱く彼女。八十年代の、文学作品のものであるにもかかわらず、ここに私は食ってかかってきたあの男性の心理とまさに同じものを感じてしまう。

こうしたメンタリティの不可解さとそれに対する私の驚きについて、別の角度から言い換えてみる。冒頭に紹介した渡邉にならって、マルクスに頼ってみる。

資本のもとに包摂されることで、労働からは個々人・個々の職能において生じる差異が捨象され、個々人は抽象的な労働力として複製し/され、自らを商品として市場に参入する。自らを商品化し市場に参入する各人はその対価として生活の糧と等価交換されることを前提としている。マルクスが『資本論』を書いた19世紀においては、その対価としての生活の糧が稀少であり、商品化した各人は絶えず死の脅威に怯えていたがゆえに、労働に励んだし、等価交換を脅かす貧困という問題が文学の主題としてリアリズムを活性化さえしたであろう。生命のかけがえのなさとは人間という労働力商品の稀少さであり、その正当な対価が求められもしたであろう。しかし、資本主義の高度化によって商品の稀少性が実質的に解決され死の脅威はもはや先進資本主義国ではほぼ存在しなくなったかに見える。なのになぜあたかも死の脅威はむしろ強まっているかの如く、人々はこぞって「健康」を求め喫煙に象徴されるような「不健康(=死)」を忌避するのだろうか。水道料金の多少の増減で死の脅威にされされる心配もない経済成長を達成していた時分にあって、ましてそれが子どもの仕業でしかないのに、なぜ心にゆとりがないのであろうか。

千葉雅也は「禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ:屋内全面禁煙化批判」と題された時評において「身体の私的所有(の強化)」の観点からこの問題について語っている。私の体験が屋外でのことだったのに対し、この記事は屋内全面禁煙化への批判ではあるのだけれども。

千葉は現代社会における「迷惑に対する寛容性の喪失」を批判する。「迷惑」を完全撲滅した潔癖症社会というのは文字通り「人でなし」社会であって、そこに生きるのは「生産性」のお高い人の形をした社畜群である。分煙でもダメだと言いたい神経症的推進派の方々は、分煙で構わない、完璧なものでなくとも、それに吸う人がいてもよいではないか自分は吸わないが、という人なり権利なりさえ無視してる。完璧ではないという「不完全さ」、「我慢と許容のグレーゾーン」を前に、耐えきれずファクト的・エビデンス的な理屈で「白か黒か」を決し安心しようとする。

こうした事態は受動喫煙をはじめ、移民問題、マイノリティの権利問題、はたまたベビーカーうざい乳児の泣き声が癪だというリーマン等々、様々な場面に見られる。「他者との偶発的な関係によって「自分という資本」が目減りする、不完全化するのを避け」ようとするメンタリティが、こうした「身体の私的所有」に対する神経症固執を生んでいるという。

所有ということで私がパッと思いつくのは、ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言う奴のことは信じるなと言ったルソーだが、もう少し手前で想起するなら、「われわれは生存をつづける最低の必要をみたすために「治者」にならざるを得ない」と書いた江藤淳はどうだろうか(『成熟と喪失』1967年)。「ならざるを得ない」のは「保護されている者の安息から切り離されておたがいを「他者」の前に露出しあう」ことへの「怯え」によるものであり、ゆえに「治者」は「最小限の秩序と安息を自分の周囲に回復」すべく「不寝番」となるのだ。この話からも伺えるように、所有(とその主体たる「治者」)の要点の一つとは、境界確定およびその強化である。先に引用した黒井の作中の女性は夫=治者の代理人であり、そうである以上、たかが水道の水であれ、たかが子どもの仕業であれ、家=所有地を侵犯するものは許しがたい犯罪と映ってしまう。そのとき「怯え」とは憎悪=殺意にも容易に転ずるというわけだ。同様のことが身体=所有物についても言えるだろう。 

「健康増進」「健康維持」という一見すると抗いがたい昨今の脅し文句は、資本主義の根幹をなす複製技術を指す今日の名である。人は自らの命が当然惜しいであろう。自分というオリジナルの、このかけがえのない命はしかし、資本主義社会においては労働力商品というコピーでしかない。このコピーたる労働力商品がある水準以上の(健康で文化的な最低限度の)商品(=コピー)群と交換されることが、資本主義社会の根幹にある等価交換(という建前)である。しかし福祉国家が終わりを告げ新たに始まった新自由主義社会において、それまでの水準での根本的等価交換(とそれに付随する様々な福祉の領域)が崩れてゆく。等価交換の水準は引き下げられ、死の脅威が再び顔をのぞかせる。高い生産力を求められる労働力商品たちは、その質を維持・向上させ資本のスピードについていけるよう自らを規律訓練(=複製)し、その規律訓練と私的領域での束の間の快楽を阻害するようなものを監視(不寝番!)し迷惑・ハラスメントとして告発するようになっているのではないだろうか*3 

千葉の議論は右派・左派・禁煙推進派・喫煙擁護派の四者をたばこと政治の相関関係へと進む。これらの図式的な整理から、著者は左派にして喫煙を擁護する「身体のコミュニズム(アナルコ・コミュニズム)」を主張する。それは白黒つけられないグレーゾーン、合理性をはみ出るところで展開される関係性を基盤にした世界であると言う。我々人間には、利害や契約といった合理化・私的所有化をはじくような、身体の共同性の領域が存在する。そうした関係性が展開される一空間が喫煙所なのである。最近では、「それは曖昧なものを共有するインディアンの空間」であり「組織の上下関係や管轄を逸脱したコミュニケーションが起こり、陰謀の巣窟」となりうる、その意味で、喫煙所の撤廃は「ガバナンスの問題」なのであり、翻って「タバコとは陰謀なのだ」とも言われている(2020年7月18日のツイートより)。陰謀といえば「人民の敵」陰謀家を自称する外山恒一もまた反禁煙の立場から挑発的なツイートをして衆目を集めていたのは記憶に新しい。

喫煙所から一歩出て吸っていたあの夏の日、喫煙所と外界との「グレーゾーン」に立っていた私を、彼は殺そうとした。彼は「陰謀の巣窟」から漏れ出てくる「たかが煙草の煙」に脅えハラスメントだとして自らもハラスメント的に「グレーゾーン」を、「陰謀の巣窟」からはみ出る私を蛆虫のように潰しにかかってきた。このように、グレーゾーンに耐えきれずそこで生起する関係性を迷惑・ハラスメントとして告発する傾向は、現代社会において、喫煙に限らず様々なものを対象に加速度的に強まり、蔓延している。そして蔓延の契機となったのは 、外山に言わせるとオウム真理教が社会問題となって日本社会が対テロ戦争へと舵を切った95年以降のことらしい。

昨今のコロナ禍にあって、「陰謀の巣窟」を滅さんとする動きにさらに拍車がかかりそうだ。2020年8月8日のYahooニュースで、喫煙所でのコロナ感染が確認されたとの記事が掲載されたのだ(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6367782)。「喫煙所のように狭い部屋で密になって会話をしていれば感染リスクはある」などと分析にもなっていないような「分析」を報じているが、グレーゾーンを無化し身体資本の目減りを防ぐべく喫煙者を狭小な片隅に「合理的に」押し込めたが故にこうしたことが起こったのだから(とはいえ喫煙所に入る前段階ですでにウイルスのキャリアであったのだから、そもそも…の話だと思うのだけれども)、自らの「合理性」自体を反省し、喫煙者を解放(せめてもう少しマシな棲み分けを提案)してもらいたいものなのだが、今の社会にはそのような慎みを求むべくもない。事実、カフェや居酒屋でそれまで分煙をしていた店舗も軒並み禁煙へと舵を切っている。こうした反喫煙の社会は次のように考えているとしか思えない。すなわち、煙草を吸う人間は「死ぬ権利」を主張しているのであって、生きるという人間の「義務」を放棄している。そのような愚か者は「人でなし」とみなして構わない、いっそ排除してしまえ、と。あるいは、生きる義務を放棄した人でなし喫煙者には、煙草を値上げしてやれ、それでも煙草を買い吸い続けるだろうから、アガリは貧者に再分配するといえば立派な建前もつくというものだ、と。こうした発想は、千葉への批判として見かけた次のようなツイートにも容易にみてとれよう。曰く「喫煙問題に共産主義持ち込むって一方的に喫煙者が受益するだけでは。タバコ税からお小遣いでもくれるのかな。」この批判ならぬ批判の問題点を論う労は取らないが、この発想とそこに潜在している欺瞞性は、まさに、私が喫煙者のキャリアを歩み始めてまもない頃囁かれた煙草値上げ一箱千円論者のそれだということは、改めて確認しておくべきだろうか。

こうした趨勢に対し、身体のコミュニズムは、それが内に抱え込む空間性すらもターゲットとするコロナ禍の「新しい生活様式」にあって、どのようにクリティカルな概念として実践の場に活かせるだろうかだろうか。生を強制する資本主義下の統治のイデオロギーについて、千葉は改めて稿を起こすと言っている(「反喫煙と資本主義、という話はそのうちnoteなどに書きます」2020年8月1日のツイート)。それもまた楽しみに待ちつつ、私自身も禁煙ナチズムに抗い闘い生きていこうと決意を新たにした。 

Voice(ボイス) 2017年?9月号

Voice(ボイス) 2017年?9月号

 

 

 

*1:黒井千次『群棲』1988年

*3:しかし資本のスピードについていけるのは機械(それこそAI)=人でなし、ではないだろうか。死の脅威に怯える労働力商品群は、喫煙者を人でなしと告発するが、返す刀で労働力商品の理想形たるAIをも人でなしとして恐れている。どうしたいのか。