ギュスターヴ・モロー展@あべのハルカス美術館

f:id:Helvetius:20190908150453j:image

展覧会情報(https://www.aham.jp/sp/exhibition/moreau/

 叡電、京阪、御堂筋線と久しぶりに電車を乗り継いで大阪へ。前売りでチケット買ってほっといたら終わりが近いことに気づき、出不精を押して鑑賞してきた。 ポスターにも使われている < L’apparition(出現)> がやはり一番見応えがあって、これをじっくり真近で見れただけで十分以上に満足だった。

f:id:Helvetius:20190908174224j:image

↑『出現』

 今回観たのはギュスターヴ・モロー美術館所蔵のもの。この傑作ができるまでに、モローはサロメを主題とする作品をいくつも描いている。今回の展示では、この傑作に至るまでの一連のサロメ作品を辿れるようにしてあって、いわばモローのサロメ弁証法を伺うことのできる、素晴らしい構成となっている。

 書き始めなのだから、先走ってみてもいいだろう。画像で見てもわからないこと、直接見てみないと感じれないことがあって、それはここで描かれている「血」があまりに生々しいことだ。たしかにここに描かれているのは画面内の女性サロメの幻視なのだろう。首だけが宙に浮いてるなんて、ピンポイント無重力状態が「出現」するのでもないかぎり現実には起こりえないからだ。しかし、それにしても、首から滴る血と肉片、床に溜まった血溜まりからは、血生臭さが立ち込めてくるのを感じるほどなのだ。わたしは魅入ってしまった。絵の具のマチエールが、単に色が赤で類似しているということをこえて、血そのものになっている。この画面のなかで異様なのは、宙に浮かぶ首というより、むしろこの血の物質性なのではないか。しかもそれが、背景のぼんやりとした朧げさと好対照をなしているがゆえに、いっそうこの印象は強められる。そこへ展示が紡ぐサロメ作品のシーケンスが流れ込んでくるのだ。。。と、まあ先走ったところで、落ち着いて最初からやり直してみる。

 サロメとは、新約聖書などに登場する少女だ。サロメの母は、最初の夫との間にサロメをもうけたあと、夫の異母兄弟であるヘロデ王と再婚する。そのことを洗礼者ヨハネは批判したために、サロメの母の憎しみを買うこととなる。そんな折、サロメは宴でヘロデ王を前にして見事な舞を披露する。

f:id:Helvetius:20190908175952j:image

↑『ヘロデ王の前で踊るサロメ

 その舞に満足したヘロデ王サロメに褒美をとらせようとする。このとき、サロメの母が、ヨハネの首が欲しいと言うようサロメに囁いた。そしてサロメはその通りに告げ、ヨハネは斬首に処されるという次第。この出来事をいかに表現するか。モローはさまざまに試みる。その試みを展示は時系列的に並べてみせてくれるのだ。

 まずは斬首直前の光景を描いた『洗礼者聖ヨハネの斬首』。

f:id:Helvetius:20190908173850j:image 

この作品の構図が素晴らしい。高さを強調し静謐な空気感を出し、そのなかでおそらくはヨハネが祈りの言葉を口ずさんでいるのがありありと感じられる。

 次いで斬首後を描いた同じタイトルの作品。

f:id:Helvetius:20190908173907j:image

この作品では斬首後の首なしヨハネが手前に描かれている。そして確実とは言えないが、その首をサロメが運んでいるのではないか、と思わせるところがある。

 そして斬首の場面を中心にしてそこにサロメが立ち会う構図から一点、サロメを中心にして斬首の場面を後景化させた『牢獄のサロメ』。

f:id:Helvetius:20190908173928j:image

 こうした一連のサロメものでモローが試行錯誤していたのは、斬首というセンセーショナルな出来事とサロメファム・ファタルなさまを共立させて描けるか、ということだ。斬首しているまさにその切っている最中を切り取って描いても、いかにも切っていますとなって説明的だ、あからさますぎて退屈になってしまう。そんな野暮なことはしないし、できるはずもない。だから、切っている最中というのは選択肢からまず消える。省略することで、かえって見る人に想像させる、というのはよくあることだ。

 とはいえ、ではどうするか。まず直前を描いてみた。しかしそれでは十分でなかったようだ。斬首の出来事性は描けているにしても、サロメの宿命性がイマイチだからだ。ただの付添人に見えてしまう。直後を描いてみてもダメだったようだ。すでに終わってしまった感が斬首の緊張感をぼかしてしまうからだろうか。サロメが表情一つ変えず運び去ってゆくところにはミステリアスな雰囲気を感じなくもないが。かといってサロメを中心に持ってきて、サロメの内面描写を象徴的にしても、斬首の迫真性を犠牲にせざるをえない。

 そこで『出現』が出てくる。これは、サロメが踊りを舞っているときに、つまりヨハネはまだ生きていて、斬首される前の段階で、斬首されたヨハネの首が突然現れるさまを描いている。キャプションの解説には、背景の王や王妃、そして楽器の演奏者や衛兵などはこのことに気がついていないようなので、サロメの幻視であることがわかる、という感じのことが書いてあった。つまり、ヨハネの首はサロメ以外の人間には見えておらず、彼女の舞踊の結果もたらされる恐るべき運命として現れているわけだが、その幻影を見てもサロメは怯むどころかしかとその首を見つめ、舞踏を止めはしない、ということだろう。あらかじめ結末が予言的に示されているにもかかわらず、それに向かって突き進んでいく、というのは典型的な悲劇の構造だが、モローはサロメの宿命性と斬首という出来事の迫真性を、悲劇の構造で共立させることに成功したというわけだ。

 ただ、作品をじっと観ているうちに、本当にこれはサロメの幻視であり彼女の意識だけに起こったことなのか、自分にはわからなくなってきてしまった。すべてはあの血の生臭さである。そこへ展示のシーケンスが折りたたみ込まれることで、虚実は反転する。観るものはそこに斬首の出来事を幻視する。血の匂いを幻嗅する。サロメの官能的な宿命性に身震いするのだ。【了:2367字】