パトリツィア・カヴァッリ『私の詩は世界を変えないだろう』

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アガンベンが序文を寄せている詩集ということでパラパラとめくる。表題作にして冒頭の一作につき、以下拙訳。

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誰かが私に言った

きっとあなたの詩は

世界を変えないだろうと

 

私は答える、そうきっと

私の詩は

世界を変えないだろう

 

(Patricia Cavalli, Mes poèmes ne changeront pas le monde, Préface par Giorgio Agamben, Trad. de l’italien par Danièle Faugeras et Pascale Janot, Paris, Antoinette Fouque, 2007, p. 17 より。)

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芸術は/が世界を変える、という文句はおそらくはいまもどこかで喧しく、あるいは芸術=科学(テクノロジー)と見るならばまさに日々、芸術は世界を変えていっている。あるいは変えていっていると思いたい欲望がそこにあからさまに(しかしもはやそれに倦み飽き、どこかシラケつつ?)投影されている。

言うまでもなくテクノロジーがある種の規範(「未来」や「進歩」、もっと抽象化するなら「能力」)を代行体現し、それが社会体の牽引力となっていた時代は、テクノロジーがハードであった20世紀、すなわち二つの核の時代(原子核細胞核)のことであり、テクノロジーがソフトに移行し「制御」が資本主義と連動して私たちとなりすまして地を覆うに至った現代においては、事態はさほどに見易いものではなく、ファリックな代行は細分化分散化され、古色蒼然たる規範は意匠を変えて渦巻き、かつ私たちにAIたれ!との命法を響かせ、その下で私たちはあくせくと自らをテクノロジーへと率先して疎外し、その運動に倦み疲れつつもなおもそれを欲望せざるを得ず、癒し難い己のネガをも自己表現の背面に再度めくり返して上演=常態化させなければ気が済まない。

カヴァッリはしかしそこから降りようとしているように思われる。そして芸術=科学(テクノロジー)の等式を宙吊りにし、芸術の儀式性、小部屋で能動的に受動性を構成し外部の降臨を待つ、そんな詩をはじめようとしている。