ジャガイモを食べるときに

鞭打たれる馬が視界に入るや否や駆け出し、その馬の首を抱きかかえ涙にくれたニーチェ。その後彼が発狂したことはよく知られている。かたや、馬のその後を知る者は誰もいない…。こうして始まるタル・ベーラ監督作『ニーチェの馬』では、強風の吹きすさぶ荒涼とした土地の一軒家で、馬の持ち主である農夫とその娘が、何を話すともなく、茹でたジャガイモだけを食すシーンが延々と描かれている。寂寞としたその映像の中で白さを際立たせていたジャガイモが、いまでも残像のように脳裏に蘇る。このとき、ジャガイモは私にとって異化された存在へと姿を変えたのかもしれない。いわば、私はジャガイモに映画的に「出会った」のだと思う。

このジャガイモ描写に魅せられて、一時期西欧におけるジャガイモの歴史を紐解いてみたことがある。するとなんと、ジャガイモはもとはといえば人間の食べるものではなく、ジャガイモは昔家畜の餌だったらしい。そんな時代から、ジャガイモは人間の食べ物だという意識ができていく現場に遡ってみること、いわばジャガイモと今度は「歴史的に」出会ってみることが、当時の僕にはとてもおもしろかった。

そのとき読んだ本は、たとえば山本紀夫『ジャガイモのきた道—文明・飢饉・戦争』、ラリー・ザッカーマン『じゃがいもが世界を救った—ポテトの文化史』、伊藤章治『ジャガイモの世界史—歴史を動かした「貧者のパン」』、などである。これらの本を読むと、家畜の餌にすぎなかったジャガイモを、人間も食べて良いものとしたのは、パルマンティエだとされている。いまだに、パルマンティエ風◯◯として料理名に残るくらい、このパルマンティエなる人物はジャガイモの普及に貢献したようだ。

しかし、今回取り上げるのは、その有名なパルマンティエではない。ジャガイモ普及に携わった「もう一人」の人物であるミュステルである。彼の功績を、18世紀フランスにおけるジャガイモ受容を支えた言説空間(メディア)を通して見ていきたいと思う。

 

18世紀フランスにおける主要都市の一つルーアンは、1744年から科学、芸術、文芸のアカデミーを抱え、1761年には農業協会が設立された。その知的活動のメディア媒体として、「南北ノルマンディからの様々な広告、掲示、意見」という週刊誌が1762年に創刊される。この媒体がジャガイモを取り巻くプロパガンダとしてその役割を果たすこととなる。

 

ーー富裕層の方々に、我が農業協会の尊敬すべき人物が、彼の土地で行ったばかりの実験の数々について至急お知らせいたしします。彼はそこでサツマイモやジャガイモを栽培してきたのですが、首尾よくいって、4分の1エーカーの平凡な土地がそれら25キンタルもの収穫を生み出したのです。[……]この尊敬すべき市民は、この最初の試みでは飽き足らず、実験によって、ジャガイモからなしうるあらゆる使い道を見ようとしました。[……]それゆえ、読者の皆様や主任司祭様方、貴族領主の方々や、さらには農民の皆様までもが、この豊富な新しい源泉にいま少し注意してみていただきたいと望んでもよいことでありましょう。というのも[……]それによって不幸な人々を労せず楽に救えるに違いなく、その数は、食糧難の厳しい時期であればとりわけ、十分すぎるほどのものとなるのですから。ーー

 

これは当時のノルマンディの首都ルーアンで、1767年1月30日付の週刊誌『南北ノルマンディからの様々な広告、掲示、意見』に掲載された、ジャガイモの有用性を伝える記事だ。それにしても、17世紀初頭にオリヴィエ・ド・セールって人が伝えてからこのかた、18世紀に至るまで、「腹にガスが溜まる」「らい病になる」といった偏見を伴って嫌悪されてきたのがジャガイモのはずである。18世紀の知の集大成である『百科全書』のなかですら、その編者の一人であったドニ・ディドロが、1765年版で「しかしこの塊茎は、どんな風に調理しようとも、味気がなく崩れやすい。ジャガイモが好まれる食材に数えられることはおそらくないであろう」と書き付けるほどだ。上の引用に見られるようなメディアの態度変化には、どんな理由が考えられるだろうか。飢饉や食糧不足というだけでは、答えとしては片手落ちである。

それを知る糸口として、ここで言及されている人物とは誰なのか、と問うことにしよう。私たちはすぐさま、先に紹介した、ジャガイモの第一人者として知られるパルマンティエのことを想起するだろう。三等薬剤師として七年戦争に従軍した際、捕虜となったときに食べさせられたジャガイモに啓発されてジャガイモ研究および普及に専心した、あのパルマンティエだ。しかし、パルマンティエが論壇にデビューするのは、ブザンソン・アカデミーが1772年に募集した懸賞論文である。だから、パルマンティエ以前にメディアを賑わせた重要なジャガイモ研究者がいることになる。それは誰か。それが、フランソワ=ジョルジュ・ミュステルである。彼もまた、軍人としてキャリアを積み、戦地を視察した際の経験から、引退後ジャガイモ栽培研究に勤しむことになる。そのミュステルは当時、ルーアンのサン=スヴェール街に数年来住んでおり、そこでジャガイモ栽培と実験を行い、得られた様々な知見を、ルーアン農業協会会長であるマルキ・ド・リメジーに伝えていたという。そして同年の3月26日に、農業協会でミュステルはジャガイモ栽培と利用法に関する発表をおこない、翌週には、彼の方法に基づいて作られた「節約パン」ことジャガイモパンが知識人たちに振る舞われ、好評を博したのだった(ちなみに、節約パンは英語で言うと「エコノミカル・パン」なので、今風に略すせば「エコパン」とでもなるだろうか)。

こうした一連の出来事がメディアによって宣伝されることで、一気にジャガイモへの関心が高まり、ミュステルの発表は同年に『ジャガイモおよび節約パンに関する論文』として出版され、農業協会の会員に任命されることとなる。ところで、ミュステルは「節約パン」と言っていた。それは文字通りパンで、ジャガイモからパンを作ろうとする試みであった。この論文の中でミュステルは次のように述べている。

 

ーージャガイモと小麦粉でパンを作ろうと思って以来、デュアメル氏の著作はこの野菜から真っ白な粉を引き出すことができ、小麦粉と同じ使い方ができるということを私に教えてくれた。[……]だが、そもそも水っぽく脆いこの野菜を粉末にするにはどうすればいいのかを理解するのは容易いことではない。おそらくそれは、その実体と性質の多くを失うまでジャガイモを乾燥させることによってしかできないであろうと思われるに違いない。だが私は、乾燥に不都合なものや生の部分、製粉機には邪魔なものをあえて残すという方法で、ジャガイモの新鮮さとエキスをなんら失うことなくジャガイモでパンを作った。ーー


ミュステルの着想の源泉にあるデュアメルの著作とは『農業の諸要素』(1762)である。そこでは確かにジャガイモ粉の製造、およびそれによるパン製造が可能であると記されている。だが、その製造方法をデュアメルはまったく記していない。だからこそ、ミュステルの知的好奇心をかき立てることとなった。ミュステルは小麦粉なしのジャガイモのみのパンを本当は作りたかったのかもしれない。しかし、それはおそらくできなかったのだろう。せめて小麦粉のカサ増し役になればよしと考えたのだと思われる。実際、麦の不作に喘いでいた当時の状況を鑑みればそれだけでも有難いものとなったはずだ。試行錯誤を繰り返す中で、ミュステルは「生の部分をあえて残す」独自の方法を考案するものの、それに見合った器具がなかったため、逆さ鉋のような、縦24cm×横16cm×厚2cmで4本の脚がついたものを製作したと言う。その器具を使って得られたジャガイモ粉を小麦粉と混ぜ(割合は2:1ないし1:1)作られる「このジャガイモパンは強い加熱を要しないため、窯を温める必要もない。それは一種の節約である」と彼は記してもいる。知識人たちに振る舞われたパンとは、この「エコパン」だったのだ。

メディアのジャガイモ・プロパガンダは賛否両論を巻き起こすこととなった。ジャガイモは医学的に害があるのではないかといった相変わらずの疑念をはじめ、様々な批判とそれに対する応答がメディア上でなされ公開され、議論された。それがひと段落したところにパルマンティエが現れる。

ミュステルの側からすれば、パルマンティエはミュステルのお株を奪ってしまった憎っくき相手、というわけだ。ジョルジュ・ギボーが伝えるところによれば、ミュステルは1779年にルーアンの当局に手紙を送り、パルマンティエの「発見」に異議を唱えたという。当然パルマンティエも黙ってはおらず、同年の『小麦粉を混ぜずにジャガイモからパンを作る方法』で反論をする。その事の次第も大変興味深いのだが、長くなるので割愛する。

 

ザッカーマンが記しているように、1761年には財務総監テュルゴーが農夫たちの前でジャガイモを食すというパフォーマンスをやってのけているーー昔も今もやることは変わらないようだ。このパフォーマンスがなされる少し前には、デュアメル・ド・モンソーが『イギリス人、タル氏の原理に基づく土地耕作論』(1751)を記し、1758年にはケネーが『経済表』を出版して、重農主義思想が開花していた時期である。農業協会は、ケネーら重農主義思想に影響を受けた官僚側が、主要都市に設立したものでった。農業協会には高級役人や貴族が任命され、そこで様々な議論や実験がなされたほか、地方三部会や高等法院、街のサロンなどでも、多くの知識人や大地主たちが農業問題で議論に花を咲かせていた。「1750年頃、詩、喜劇、悲劇、オペラ、小説、空想物語、人生訓、ジャンセニスムや恩寵についての神学論争に熱中していた国民は、とうとう穀物について論じはじめた。ぶどうのことさえ忘れて、小麦やライ麦のことを話すのである。農業について有用なことも書かれた。皆がこれを読んだ。ただし、農民は除いて。オペラ劇場から出るときも、フランスには売るべき小麦があると議論したものである」、とはヴォルテールの言である。ジャガイモ「啓蒙」への官僚やアカデミーの積極的介入が以後行われてゆくことになるが、その背景には同時代の農業および「エコノミー」への関心の高まりもあった。以上のような動向は、「有用な科学」キャンペーンを張り統治へと関与してゆく科学アカデミーが、権力と足並みをそろえて、当時雑多な外延を有していた「エコノミー」の一つである「農村のエコノミー」にも介入してゆく過程、とも言えるだろう。ミュステルの「エコパン」は、こうした街場の喧騒の中に埋もれてしまったのである。