8/18公演の劇団四季『ノートルダムの鐘』を観劇してきました

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劇団四季の『ノートルダムの鐘』を観劇。すごいものをみてしまった。腰が抜けてしばらく呆然としてしまった。

十字架に縛られて火刑に処される最中カジモドに救出するもこと切れるエスメラルダ、その瞬間を片手の動きだけで表現したところではハッと息を呑み、その彼女をカジモドが抱きかかえて立ち客席に向いたときの様は、ミケランジェロピエタ像をありありと彷彿させる美しさだった。見事な記号の逆転。

寺元さんが舞台で怪物カジモドに転じた瞬間からもう圧倒されていた。祝祭にカジモドが向かうときにさらっとボロではあるが赤の羽織を着せる色の記号の行く末は劇中ずっと追いかけていた。赤は権力者を示す記号でもあるからだ。また、カジモドがフィーバスとともにエスメラルダを探して奇跡御殿へと向かうときの路地の表現の仕方や、カジモドが火刑に処されるエスメラルダを救うべく人の間を縫って駆けていくときの表現の仕方、ジプシーの蜂起と警備隊との衝突から聖堂へ押し寄せたとき、煮えた鉛の入った大鍋をぶちまけるシーンの布と照明の演出など、大変に見事だった。そしてたった一度だけ登場するルイ11世の演出も興味深いものだった。原作ではルイ11世は監禁を彷彿とさせるようなイメージで表現されている。城壁沿い=パリの境界線上のバスティーユの暗い部屋で、醜く体を折ったたひどくみっともない格好で、服装も黒でボロボロの、膝も内側に曲がったジジイである。つまり赤毛でX脚のカジモドそっくりなわけだが、カジモドはといえば赤く燃え盛る大聖堂と一体化している。対して『ノートルダムの鐘』では赤のビロード(?)でファーのついた優雅なローブを羽織って恰幅は良いのだが、いかんせん背の小さい、言ってしまえばずんぐりむっくりの、滑稽さも感じさせるような出で立ちで、背の高く体格の良いフロロと並び立つとどちらが「上」かは明瞭、しかも一言二言でルイはフロロの手駒であることが表現され、フロロが表地は黒だが裾に覗かせる裏地の赤のローブを着ていることで、その意味は嫌でも感得させられる。そしてこれきりルイ11世は舞台から消し去られる。舞台で繰り広げられる司祭=警備隊と民衆=ジプシーの抗争に、王の居場所はないと言わんばかりだ。ではその抗争の行方は?たしかにカジモドによって司祭フロロは葬られるが、そもそもカジモドは聖堂に押し寄せる警備隊とジプシーともどもめがけて煮え鉛を放つ点で、なし崩しにしたようにも見える。

そしてこのアダプテーションで最大の難問は、ユゴーの描くノートル=ダム大聖堂をどう表現し体験させるかだろう。外観を眺めることもできないし聖堂内部を歩き回って眺めることもできないからだ。しかしだからこそのミュージカルだったのだと思う。ユゴー曰く、ノートル=ダムは「巨大な石造の交響楽」であり、「一定の建築様式にきちんとくり入れられるような建物ではけっしてない」「複雑な統一を見せ」る「過渡的様式の建築」である。言い換えればノートル=ダムは都市的現実を体現する多声的な建築なのだ。ミュージカルが換わってその多声性を見事なハーモニーへと奏であげるとき、それはエスメラルダを想う三者がそれぞれの一見すると不協和な心情が歌い上げられると見事に協和する瞬間であり、にもかかわらず一つ一つの声と想いが掻き消されずに観る者の魂を揺さぶる瞬間であり、そのときまさに聖堂が体験されるのではないかと思った(もちろんこれだけに限らないが)。観れてよかった、本当に。【了:1435字】