「役立たずですが、何か問題でも?」:千葉雅也「「過激で不愉快な同性愛者」の批評性」、『yom yom』vol.53 所収、読んだ

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主著である『動きす』から入るのが王道でしょうし、読むべきなんですが、私は談話をもとに編集されたこの小品から、千葉雅也さんの考えていることに初めてアクセスすることとなりました。

内容は、昨年物議を醸した杉田水脈氏のLGBTをめぐる発言を受けて語られたものです。話の流れとしては、まず、こうした発言の裏にある構造を見、発言の不可避性と反復性、そしてその手強さを指摘したのち、抵抗の仕方を一つ語る、というものです。以下、ひとまず要約します。

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発言の裏の構造、それは国家の論理と資本主義の論理のコンフリクトだと言われています。国家の論理とは、領土内の構成員にみかじめ料(税金)を払わせ、かつ後釜の用意(再生産)を課し自らの存続を図るというヤクザな商売こと。資本主義の論理とは、国家規模のヤクザな商売の外側に絶えずはみ出していき、その手の届かぬところにストックをつくっていく顔のないシステムのこと。みかじめ料を支払わず外に逃げていってしまうのだから、国家としては不安で仕方ない。せめて後釜くらい残してもらわんと困る!というわけ。杉田氏の発言はこうした不安から発せられたアレルギーの一症状みたいなもんだ、と。とはいえこのことは逆に、杉田氏のような発言はある意味今後も不可避的に噴出し続けるということを意味しています。国家というヤクザな商売が営まれ続く以上は当然です。そしてその度ごとに、後釜をつくる生産性をもたない同性愛者は「役立たず」だと繰り返されてゆく。手強い。そこでどう抵抗するか。

いつだって誰だって、今すぐにでも、国家の論理を内面化して「責任が...」などとまごついてないで、そんなのはおままごとをやめるように、「やーめた!」と言える。生産性なんぞ知らん!いらん!みんなに認めてもらう必要なんてないしみんなを説得する必要もなくて、端的に、好き勝手に、自由に生きていける。フリーライダーだとか後ろ指さされて苛つかれようが、それすら知ったこっちゃない、としたたかに生きていくこと。

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資本主義の貪欲さ、グローバル化のほうが長期的にみても優勢であるとすると、国家は資本主義のルールなりロジックなりとは異なる特殊なルールを設けて成り立っている場だと見ることもできます。ということは、国家というのは、現実(資本主義)のなかで営まれている遊び場だと見ることもできそうです。国家も遊び続けていたいから必死なんですけど、その「みんなの遊び場」がつまんなくて、そのなかで勝手に自分の遊び場をつくって自分のやり方で別の遊びをはじめちゃうこと。もちろん「ふざけんなよ」と言ってその遊び場から連れ出そうとみんなしてくるけど、そういうのを「切断」していくこと。かといって孤独に引きこもるってのともまた少し違う別のかたちで。読んでよかったです。ほかのも読んでみようと思いました。【了:1175字】

 

【まとめてリライト】村田沙耶香『コンビニ人間』(文庫版)

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「小さな光の箱」や「ガラスの箱」と形容されるコンビニのなかで、「コンビニの音」となってゆく無数の音たちに触れながら、主人公・古倉の肉体はマニュアルで彫塑され、見事な歯車として、透明な箱の新陳代謝に勤しんでゆく。

その古倉のアスペっぽい人格と生い立ちを描写し、マニュアルで彫塑される彼女の視点を通して、私たちの「常識」=マニュアル化されたモノの見方を揺さぶる話なのか、と思っていると、物語は旋回し、不意に現れる、コンビニ店員すらも務まらない、理不尽なほどに他責的で、言い訳なのか詭弁なのかもわからない話をまくしたてる白羽という男性と古倉の、出会いと別れへと向かってゆく。

古倉に、寄生しきってみせますよ、と言い切る白羽は、彼女にコンビニのバイトを辞めさせ、就職させようとする。古倉の「合理的な」思考の助けもあり、見事バイトを辞めさせた白羽は、マネージャーのごとく立ち回るも、かたや古倉の心身はモルタルのように溶解していってしまう。

はたして、古倉は自らの意志で白羽の提案を拒否し、「小さな光の箱」へと戻ってゆくところで物語はおわる。産婦人科のプラスチックの箱で新生児が少しずつヒトの形をとってゆくように、古倉はこの透明な「ガラスの箱」のなかで、また成形されるのである。自分の代わりなどいくらでもいることを自覚し、それに安堵さえ覚えながら、部品として生まれ機能してゆくことに、快楽を求めてーー。

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これを読んで僕がふと思い出したのが寺山修司だった。

かつて寺山は、イプセンの『人形の家』を読み、「この作品の主人公ノラは、家を出たあと娼婦にでもなるしかなかっただろう」と皮肉った魯迅に対し、「たしかにそうかもしれない。家柄のいい妻の座を捨てた彼女は、町の娼婦になるしかないかもしれない。でも、それのなにがいけないというのか」と反論した。さらに、「そこには、自らの選んだ生き方で《幸せな娼婦》になるかもしれないノラという可能性もあることを、なぜ魯迅は思いつかなかったのか」とさえ、付言している。

いい家柄の家庭で暮らす奥様ーーしかし、そこにあなたの意志はあるのか。自由はあるのか。そんな、自分の意志がもてない家庭から、安定よりも自由を選びとり生きようとするノラを、寺山は賞賛した。自由を生きること、自らの選んだ「のたれ死にする自由」を存分に生きることこそ、自らの意志を、自我を自覚した、近代的個人であり、それをしたノラは、近代的女性のシンボルにほかならない、と。

転じて『コンビニ人間』では、どうか。主人公古倉は、「私にはコンビニの「声」が聞こえ」ることに気づき、「私の細胞全部が、コンビニのために存在している」ことを自覚する。そして、コンビニの部品になるために、ノラのように、その自由を行使する。

寺山の称賛する近代的女性像と、コンビニ人間の古倉のしていることは、同じだろうか。

たしかに、二人に待ち構える将来は、側から見れば惨めなもの(ノラは娼婦、古倉はコンビニ店員)であり、それでも構わぬと決意している点で似ているかもしれない。しかし、自由の使い方が真逆であることを見逃すわけにはいかない。ノラが「飛び出す」とすれば、古倉は「飛び込む」ないし「出戻る」というのが相応しいからである。あるいは、ノラが娼婦となって服を脱ぐのだとすれば、古倉はまたコンビニの制服を纏うからだ、と言い換えてもいい。

寺山が称賛するような、わかりやすい自由、古典的な自由なんてものが、みんなの救いになるような社会は、ノスタルジックに眺める彼方の対象になってしまっているのだ。

ーーそれにしたって、「自由」を行使したその先がコンビニなんて、あまりにちっぽけすぎやしないか。低俗的、あまりに低俗的だ。。。

こんな皮肉を今度は寺山さえもが口にするかもしれない。でもきっと古倉は飽かず「マニュアル」通りにこう言うはずだ。

ーー身体が弱いんですよね。ははは。

自分にとっての幸せと、他人にとっての幸せの、通分することの困難、しかし今ではその困難さえも凌ぐための生の「マニュアル化」がある。そしてそういう「マニュアル化」を、単純な善悪ではもうバッサリ切ることができない段階にまで社会が来ている。その社会に生きる私たちの実存には当然「マニュアル化」が深く食い込んでおり、それは振り解けばいいというものでもなく(もとい、それらほぼ不可能に近い)、私たちの生を支える不可欠なものだ。タイトルに『コンビニ人間』が付されたのもまた、宜なるかな、である。

こうしたことが本作の仄めかすところであるとすれば、もはや結末がハッピーエンドか否か、主人公に共感できるかどうか、といった次元に、『コンビニ人間』(あるいは「コンビニ人間」)はもはやないのだろう。【了(1952字)】